2000年2月19日 / 「非電化時代」
「小節作法」というものを、それぞれの小説家は、お持ちのようです。司馬遼太郎さんの場合は、テーマとしての歴史観を定め、ヒーローを決め、徹底的に資料を調査し、ストーリーを組み立てて‥‥という具合に。宮城谷昌光さんの場合はというと、他人が書いていない中国の歴史上の人物を定め、10年掛かりで徹底的に資料を調べ上げて人物像を浮かび上がらせる。ストーリーは自然に湧いてくるのに任せ‥‥‥といった具合です。そんなことを、宮城谷さんの「楽毅」を再読しながら考えているうちに、発明家にも「発明作法」(私の造語)というものがありそうだな‥‥と気がつきました。そこで今回は「私の発明作法」の話です(みなさんの発明作法の話もいつか聞かせて下さい)。
私の「発明作法」は、若い頃と今とでは、随分と違ってきているようです(小節作法が変化した小説家は少ないようですが)。 若い頃の作法はと言いますと、先ずテーマありき。新しいエンジンを考えるぞ‥‥と一度決めたらそればかり――寝ても覚めてもそればかり。ひたすら考えて、ひたすら実験して、多少の無理があっても強引に‥‥‥といった具合でした。最近の作法は正反対――テーマを定めず、気の向くままに、無理は通さず――です。気が向くには、向いたなりの理由があるのでしょうが(面倒なので)深く考えずに、気の向くままに。ですから、朝と昼と夜に考えているテーマが違うというようなことは、しょっちゅう。今日現在ですと、10個くらいのテーマが同時進行です。若い頃にこんなことをしていたら、精神分裂症に罹ったかもしれませんが、 不精を決め込んで、気分の波間に漂っているようなものですから、気楽なものです。若い頃の作法と今の作法――どちらがよいかはわかりませんが、今の方が発明を楽しめているような気はしますので、当分はこの心地よい作法でやることになりそうです。
同時進行中の10個くらいのテーマを並べてみますと、「電気を使わない掃除機」ですとか、「電気を使わない除湿機」ですとか、「電気を使わない加湿器」ですとか‥‥‥“電気を使わない‥‥”のオンパレードです。 “電気を使わない‥‥”をテーマに定めたわけでは決してないのですが、気分がそっちに向いてしまっているみたいです。ちょっと理由を考えてみました。
“電化製品”(電気製品とは言わなかったのです)という懐かしい言葉があります。主婦の辛い労働だった洗濯や掃除を電機製品が替わりに行ってくれる――“電化”は、生活の豊かさというより、文明そのものと感激しました(寒い季節の井戸端での洗濯の辛そうな光景は、目に焼き付いています)。そういう懐かしい時代から“電化”はますます進み、“電化”という言葉が日本からは消えました。“電気”であることが当たり前になったからでしょうか。
今、“電化”の波が発展途上国に押し寄せています。 “電化”が進み、“電化”という言葉が発展途上国でも死語になる頃を想定して計算してみますと、地球は完全にアウト(もちろん環境問題で)ですから、そうは“電化”されないのでしょうが、事態はそっちに向かってまっしぐらです。電気や余計な化学物質を使わない発明を手土産にして発展途上国を“説得”するという活動もちょっぴり(だから、もちろん功を奏しませんが)やってみたりしている内に、“電化し過ぎ”という自省―――電化しないでいいものまで電化(ついでに言うと、化学物質を使わないでいいものまで化学物質で)し過ぎて、その便利さから離れられない、ますます電化・化学化して自滅する―――麻薬みたいと言ったら大袈裟すぎるかもしれませんが―――こういう現代の科学技術にたいする自省が、自分の中で(ちょっと過激に)高まってきているようです。
“非電化時代”という言葉を作ってみました。余分に“電化”しすぎた物を元に戻す、つまり“非電化”することを暫く努力してみる―――勿論、電灯を使わずに蝋燭で‥‥なんていう原始回帰ではなく、「快適さは失わないで」という但し書き付きで。そうすると、発明がどうしても必要です――それも、そうとう高度な発明が。こういう発明をやってみると、つくづく感じるのですが、電気を使うと“発明”も楽ですね。何でも簡単にできてしまう。エネルギーの与え方も自由自在(電気エネルギーは一番高級なエネルギーですから、他のエネルギーへの変換は自由自在)ですし、制御も簡単です。電気を使わないで快適に‥‥となると、途端に難しくなります。
電気を使う場合の何倍も高度な力学も時には駆使しなければなりません。こうして考えてみると、
“電気”のみが発明だったのであって“電気製品”は発明とは言えないような気すらしてきます(ブーイングが聴こえた!)。
“非電化時代”の発明に、発明家のみなさん、一緒に加わりませんか!